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四日市公害訴訟原告団9人の写真

フォトジャーナリズム展三重2014で見て

フォトジャーナリズム展三重 2014

もうオフトピックというか、随分時間が経ってしまいましたが、四日市に生まれ、また現在そこに住んでいる者として、書いておきたい事なのでお付き合いください。今月の2日、津市で開かれたフォトジャーナリズム展三重2014 と、 「津平和のための戦争展」・「平和を考える市民のつどい」に行ってきました。

恥ずかしい話ですが、フォトジャーナリズム展三重は県外に住む友人に教えてもらいました。様々な民間団体が協力して開催しているようで、参加費は無料。ありがたいことです。DAYS国際フォトジャーナリズム大賞の受賞作品や「四日市公害を忘れないために」写真展などたくさんの展示や企画がありました。

後者は、実行委員会主催・津市共済で津の空襲の経過や焼け野原になった市内のパノラマ写真や模型や、亡くなった人の遺品の展示。それらを前にしての語り部の体験者のお話など、こちらも手作り感と共に不戦・反戦平和を願う気持ちの伝わる良い催しでした。加えて市主催の「平和を考える市民のつどい」として、この日は映画『父と暮らせば』が上映されました。大きなホールが7割ほど埋まる盛況で、いいなと思ったのは、おざなりに上映しっぱなしではくて、始まる前に市の担当職員が津の空襲の歴史について簡潔にお話された事です。終わってからも、同じ職員の人が登壇して、ぜひ家に戻ってからも今日見た映画の感想などを話しあって平和や原爆にについて話し合って下さいと挨拶され、拍手を受けていました。宮沢りえと原田芳雄主演の映画をタダで流して終り、というのではなく、ちゃんと上映の意味を短く説明するのは、とてもいいなと思いました。

さてフォトジャーナリズム展三重で、参加者へのアンケート依頼があり、その中で一番印象に残った写真はどれかという問いがありました。私は、メイン展示のDAYSの受賞作品ではなくて、「四日市公害を忘れないために」写真展の中の、「四日市公害裁判の9人の原告」という写真にしました。 別に奇をてらったわけではなく、その写真が半世紀近く前の写真ですが報道写真として一番強い印象を与えてくれたからです。

澤井余志郎さんの写真

この写真が気になり、もう一度見たいと思って四日市市立図書館に行きました。ありました。『四日市公害記録写真集 四日市公害訴訟判決(7.24.1972) 20周年記念』という本に掲載されています。禁帯出扱いの本でしたので、その写真のページをコピーしてもらいました。それをあらためてスキャンしたものを載せます。著作権的にどうかという問題に関してはあとで触れます。


四日市公害訴訟9人の原告団


この写真の9人の原告の略歴と病歴も同書に書かれています。写真の並び順にあらてめて引用します。

後列左から

瀬尾宮子さん(34)

主婦。(網内職)。気管支喘息。37年11月頃より風邪ひき程度のせきが出る。38年夏頃より1日2度程度喘息発作が起る。(特に夜中)。39年3月塩浜病院へ入院。40年5月公害病認定患者となる。

中村栄吉さん(56)

漁業。喘息性気管支炎。37年10月頃、発作出始める。40年6月頃には注射をうっても発作が鎮まらない程ひどくなった。40年6月塩浜病院へ入院。40年6月公害病認定患者になる。

野田之一さん(35)

漁業。自由労働者。気管支喘息。37年2月頃より1週1回程度の発作。39年頃より3日に1回程度の発作になる。40年6月塩浜病院に入院。40年6月公害病認定患者になる。

塩野輝美さん(35)

船大工。漁業。気管支喘息。

39年7月頃せきが出はじめる。39年暮頃より、1日、2〜3回喘息が起る。40年6月、公害病認定患者となる。40年11月より塩浜病院へ入院。

前列左から

石田かつ さん(62)

主婦。内職(煮干加工)。喘息性気管支炎。

36年5月頃せき月に1〜2回、3時間ほどつづく。36年9月身体衰弱に陥る。37年6月塩浜病院へ入院。40年5月公害病認定患者になる。

今村善助さん(77)

漁業。喘息様発作をともなった慢性気管支炎。

36年8月頃より1週間に1〜2度発作。36年6月塩浜病院へ入院。風向きによって何度も発作を起す。40年5月公害病認定患者となる。

石田喜知松さん(73)

漁業。喘息性気管支炎。

36年4月下旬突然喘息発作おき毎日のようにおきる。39年8月塩浜病院へ検査のため10日間入院。41年4月塩浜病院へ入院。40年6月公害病認定患者になる。

藤田一雄さん(61)

青果業。肺気腫。

36年10月頃急に気管支炎発生。最初は風邪の様な症状であったが悪化。39年2月塩浜病院へ入院。40年6月公害病認定患者となる。

柴崎利明さん(40)

漁業。気管支炎。

37年6月頃よりのどが鳴りだす。38年2月〜40年9月通院治療。発作に注射。40年6月公害病認定患者となる。40年9月塩浜病院へ入院。


出来事の記録としての写真

この写真は、四日市公害を初期の段階から記録し続けてきた澤井余志郎さんの撮ったもののようです。収録された書物・『四日市公害記録写真集 四日市公害訴訟判決(7.24.1972) 20周年記念』自体が、四日市公害の現地の生証人であり、独自の立場で反公害の運動を支えてこられた澤井余志郎さんが、長年地道に記録された膨大な写真を散逸させたくない、何らかの形でまとめておくことができないかと思案されているという事から生まれています(同書・「この写真集に託するもの」四日市公害記録写真集編集委員会)。澤井さんも、同書に「忘れないために」という一文を寄せています。少し長くなりますが引用します。

四日市公害はよくなった・・・工場や行政、住民も努力したからよくなった・・・とそんなことを気楽に言ってもらっては困る。

くさい魚で苦しめられた漁師。ぜんそく発作で死ぬ思いをさせられた、させられている公害患者。洗濯物がすすで汚されたり、赤ん坊が乳を吐いたりで困った母親たち。・・・ついには死に追いやられた人たち。あとからわりこんできた工場のために住めなくなり、泣く泣く追い出された人たち。行政や企業に奉仕し、住民を苦しめた自治会長などなど・・・・。

こうしたあまたの犠牲や被害があるにもかかわらず責任逃れする企業(行政)に、こんな不法が許されてよいのかと、1967年に提起された四日市公害ぜんそく訴訟を軸に反公害をすすめられ、マスコミや世論のたかまりもあり、ついに五年後の原告患者側全面勝訴判決によって、企業・行政は加害者として、はじめて被害者の公害患者・住民に頭を下げ、詫びた。

中略

運動しながら、そのときどきの出来事を撮った写真、写真としての出来ばえはよくないが、出来事の記録には、なるのではないか。

出来ばえのよくない写真は、私や市民兵のなかまが撮ったものだけど、出来ばえのよい写真は、たびたび四日市を訪れ、写真で公害を告発されていたプロの樋口健二さん、市民兵メンバーとして共に運動してくれてもいた和田久士さん、それと鈴木元輝さんや、地元で報道写真の分野でも活躍されている三浦靖弘さんの写真である。この写真集に使うことを快く承諾されたことを感謝します。

この写真は、キャプションによると口頭弁論終了後、裁判所裏庭でとあります。また原告患者の9人が全員そろって法廷へ出られたのはわずかしかない。9人そろっての写真はこれだけである。とも書かれています。つまり原告9人がそろった唯一の貴重な集合写真ということになります。

比較的年配の4人の人が着物というところにも47年前という時間を感じますが、それ以上に今時の感覚から一枚の集合写真として見ても奇異な感じがします。9人の目線がそれぞれバラバラの方向を向いています。撮る方も、撮られる方もカメラ慣れしていないのか、特に声をかけずにシャッターを押してしまったのでしょうか。表情が皆さん固く暗いのも、カメラ慣れ云々を別にしても、それぞれが置かれている患者としての、また原告としての立場がそうさせているのでしょう。原告の皆さん全員が公害病の認定患者ですし、当時すでに塩浜病院に入院されています。裁判で、原告9人が揃うのもまれだったというのもその健康上の問題でしょう。原告の中で一番若かった瀬尾宮子さん(34)は、提訴から4年後判決を聴くことなく亡くなっています。

公害病の患者の皆さんの苦しみは大変なものだったようです。喘息の発作は、多くは日付が変わった午前1時くらいから始まり、そのまま2〜3時間ときには朝まで続くようです。公害病認定患者の死者は1,000人とも言われていますが、因果関係の問題もあっていまだに特定されていません。しかし、67年の提訴前に、少なくとも2人の患者の人が喘息の発作の苦しみから自ら命を絶っています。喘息の発作による心臓麻痺で亡くなった29才の男性もいます。私も、中学生の時同級生がほとんど学校に来ることなく亡くなっています。詳しい死因までは覚えていないというか教えてもらっていなかったと思いますが、喘息の発作で随分苦しんだと聞かされました。公害病患者の多くは、発作が深夜であること、昼間は健康体に見えることから仮病だとかお金目当ての怠け者だとか随分ひどいことを言われたようです。行政や、自治体の会長などが公害企業の手先になって、あるいは公害企業の従業員やその家族が企業の利益のために、または傍観者のさもしいヤッカミによって、そうしたあらぬバッシングまでおこなわれたようです。このあたりは、今の東電原発事故による避難者や被曝者に対するそれと同じ状況だったわけです。澤井さんも、樋口さんも取材のために患者に接した時、その当初は強く拒絶され罵倒さえされたようです。

この写真は、澤井さん自身がおっしゃっている写真としての出来ばえはよくないが、出来事の記録として撮られたものだったのだと思います。ですから、集まった患者の皆さんにポーズを取らせることもなく目線を向けてもらうことすらなくシャッターを押した。公判で9人の原告が集まったという事実を記録することが重要であり、写真としての出来ばえなどどうでも良かったし、そうした事を考慮する余裕もなかったということでしょう。しかし、逆にその事によって9人の原告・患者の裁判後の偽らざる感情を捉えることになったのではないでしょうか。皆さん、それぞれが目線をバラバラに宙に向けているかに見えます。表情は固く暗い。毎日襲ってくる喘息の発作などの苦しみ、これから長く続くであろうそれまでの漁師や船大工の仕事や生活とは全く別世界の煩雑な公判 、その裁判もどういう判決が出されるかも分からないし、原告になったことによる様々な軋轢もあったでしょう。しかも、原告団となり支援の手があったとしても、健康問題をはじめ多くは自分一人で背負い込んでいかなくてはなりません。この写真には、そうした一人ひとりの思いが、それぞれに見る人に迫ってきているように思います。

撮影者の匿名性

さて、この写真はフォトジャーナリズム展三重・2014のテーマとされいるあなたに見てほしい写真ではありません。少なくも、それを意図して撮られた写真ではありません。むしろその対極にあるような写真です。それでも他の写真に比べてもこの写真に強く惹かれたのはなぜなんだろう。それは、撮影者の澤井さん自身が書いている出来ばえはよくないが出来事の記録としての写真の撮られ方・残されかたにあると思います。

出来事の記録としての写真には、その撮影者が誰かは問題とされません。先に引用した澤井さんの文章には樋口さんをはじめ写真の掲載を承諾されたプロのカメラマンへのクレジットと謝意が述べられています。しかし、実際の掲載された写真には澤井さんご自身も含めて撮影者が記されていません。澤井さんにとっては、四日市公害とそれに対する戦いの記録を残すことが大切であり、その記録としての写真を誰が撮ったということに関心がない、と言うかどうでも良い。澤井さんは、四日市公害に関わり始めた当初、自分でガリ版を切って記録を残し、ニュースを発行したそうです。例えるなら、記録を残すことが大事で誰がガリを切ったかなど問題ではないということなのでしょう。この記事で、澤井さんの写真を載せたのも、記録としての写真なら、なるだけたくさんの人に見てもらうことが、澤井さん自身の望むことだと考えたからです。

写真の出来ばえを問わない澤井さんにとってはガリ版の文字も、写真も記録としては同等でなのでしょう。大事な事は、何が書いてあるか、何が写っているかです。だから、9人の原告が全員揃って写真に収まればとりあえず良い。あえてポーズをとらせたりせずに、なるだけ撮影者の意図とか主観を排除したほうが、記録として意味がある、または写真としても力のあるものになる、そこまで澤井さんが考えていたかは分かりません。しかし、結果として出来ばえのよい写真を撮ろうとする撮影者の主観を排したようなこの写真が強いリアリティを持っているように感じます。

写真の嘘

日本の報道写真家、写真誌編集者の先駆けの名取洋之助さん(1910〜1962年)は、こんなことを書いています。

私たちの眼にふれる写真は、カメラマンと、カメラマンが写した写真を使う編集者と、編集者がいつも念頭においている読者と、この三者が要求する嘘の総合された結果といっても、決していいすぎとはいえないものがあります。

名取洋之助 『写真の読み方』(岩波新書)

DAYS国際フォトジャーナリズム大賞に選ばれた写真は、当然、撮影者が明らかなものばかりです。報道写真の中には通信社などから派遣されて、版権自体を譲り渡す場合もあるのでしょうが、少なくともここの写真は違うでしょう。そのカメラマンたちが写真を撮る意図は様々でしょう。もちろんジャーナリストとして目の前の現実を伝えたいという使命感もあるだろうし、現実的なお金、こうした受賞狙い、名声、自己満足、色々でしょう。そのために、自分の撮る写真の出来ばえを少しでも良いものにしたいと思うのは当然でしょう。そのために様々なというのが語弊があれば、演出が行われる。そうした目で、たとえば大賞1位受賞のニクラス・ハマースウトレームさんの写真を見ると色々気になります。

まずこの写真の写された状況そのものが、不自然で不可思議なものに思えます。けが人を収容する病室か、あるいは仮説のそれか、あまり清潔そうにも見えない部屋に少年がそのけが人を見るでもなく直立して佇んでいる。けが人の家族でもなさそうです。そうした不可解な状況が当たり前にカメラマンの前にあることが、内戦下シリアの現実なのだと言うことを訴えたいのがこの写真の意図でしょう。

ヤラセとまでは根拠もなしに言えません。しかし、単純に絵として見てもこの写真には妙な不自然さを感じます。少なくとも最低限の演出というか技術的に工夫の必要な写真に思われます。まず、写真の右端にある少年の顔にピントがあります。マニュアルで距離を測って合わせたか、AFポイントで合わせてからカメラを振ったか。暗い屋内の写真で、極端にピントが浅いわけでもないので、感度を上げているか、かなり遅いシャッタースピードで撮影しているか。しかし、プロのカメラマンならスナップ的にこの写真を撮ったとしてもこうした対応は出来そうです。一番気になるのは光源です。他のベッドとかゴミ箱の陰などから光源はこの部屋の奥の上方にあるのが分かるのですが、少年の顔と上半身には正面からかなり強い光が当たっています。写真に写っていない左側にたまたまレフ板のかわりになる何かがあって少年の顔と上半身を照らしていたのでしょうか。勘ぐった見方をしてみます。この写真は少年を所定の位置に立たせた上で、三脚を据えて、誰かにスポットな光源かレフ板、またはその代用を持たせ(あるいは自分で光源かレフ板を持ってタイマーかレリーズを使って)撮影した。少年の視線は、中空に漂っているのではなく、その光源を持つ人に向けられている。こう考えると納得できます。

 

私は、こうした演出が必ずしも全て悪いとは思いません。しかし、技術的な問題に詳しくない私たち素人が見ても、そうした演出の加えられた写真にはどこか不自然さを感じます。ナチスや旧ソ連、中国や北朝鮮などのプロバガンダ写真が、禍々しさに溢れているのもそうした事だと思います。それに、報道写真とかフォトジャーナリズムとして展示される写真は、多くの場合演出やましてヤラセとは無縁の現実を写したものと了解されていると思います。そういう意味では、すべての演出はだとされても仕方がないと思います。

もうひとつ、私はこの手の写真に子どもを被写体として入れることが嫌いです。これは、報道写真にとっては禁じ手だと思っています。極端なサディストか性的倒錯者でもない限り、子どもはいたいけない無垢な存在、平和な未来の象徴、守るべき対象としてして認識されています。それは、紛争とか災害、そうした悲惨を狙った絵の中に入れると、その対極として逆にそれを強調することになります。それはあまりに簡単で、かつ効果的なために洋の東西、政治的左右を問わず使われてきました。卑近なところでは、集団的自衛権についての安倍首相の5月15日の茶番な会見でも、軍艦にかぶせた母子の絵の入ったパネルが使われていました。ですから本来的にはより対象を選び吟味し向き合って写真を撮るべき所を、ある意味誰にも分かりやすい簡単な方法で効果が得られてしまいます。禁じ手というのは、そういう意味です。

DAYS国際フォトジャーナリズム大賞の受賞作には、たとえばアミッタラジ・ステフェンさんのインドの反原発運動をルポした緊張感あふれるすばらしい写真や、フィリピンの台風被害を撮った二人の写真も衝撃的でした。しかし、一方で演出めいた絵や子どもを被写体に入れたような写真もありました。そうした写真を見たあとで、澤井さんの演出や主観とは無縁の記録としての写真がとりわけ印象的だったのだと思います。